2009年04月16日
090415 葉隠
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図にあたらぬは犬死などという事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて。図に当たることのわかることは、及ばざることなり。我人、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危うきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違いなり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めて死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生超度なく、家職を仕果すべきなり。
(訳)テニスの本質は、ぼろぼろにめった打たれることだと知った。つまり、勝つか負けるか、いずれを取るかといえば、早く負けるほうを選ぶということにすぎない。(脚注:この点ひげおやじは試合では勝てないが素晴らしい。いつも参戦してスカッと負けくる)試合にこれといって、めんどうなことはないのだ(せいぜい、あいつはやっぱりへたくそだ!と皆に言われるだけ)。腹を据えて、よけいなことは考えず、試合に集中するだけ。「自分の思ったテニスができなければバカだ」などというのは、「ちばらき」や「ださいたま」(千葉、茨城、埼玉と東京)の格好ばかり重んじる打算的テニスといえる(マリンの主流)。
とにかく、二者択一を迫られたとき、ぜったいに正しいほうをえらぶということは、たいへんにむづかしい(普通は間違う)。人はだれでも、テニスの試合で負けるよりは勝つほうがよいに決まっている。となれば、多かれ少なかれ勝てないと怖気づいて試合から逃げるほうに理屈が多くつくことになるのが当然のことだ(葬式だ、結婚式だ、集まりがある、仕事がある、体が痛い、知り合いが病気だ)。試合に出ることを(いやいやあきらめて)えらんだとして、それがもし負けるに終わってなお次の休みに南コートに行ってもただ仲間から腰抜け、へたくそと軽蔑されるだけだ(そもそもそのとうりなのだから恥じる必要もない)。このへんがむつかしいところだ(編者脚注:むつかしくなんかない。試合に負けて家族や一族郎党が切腹、打ち首になるわけではない。だからへたくそでも思うようにテニスをして負けるが素晴らしい。決定権のある藩主(クラブオーナー)も同じで率先垂範。思いどうりに試合が出来れば、負けて後悔するはずもなく、もし後悔するような試合しかできないなら試合に出るな!)
ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じ死んだとしても、それは犬死、気違いだと軽蔑されようと恥ではない、つまり外野(くちゃくちゃ理由をつけて試合から逃げる腰抜け)のいうことは相手にしない。これが、武士道(勝負)の本質。とにかく、武士道をきわめるためには、朝夕くりかえし死(負け)を覚悟することが必要なのである。つねに死を覚悟しているときは、武士道(勝つ方法)が自分のものとなり、一生誤りなく自分の思い道理どうりにテニスの試合ができるというものだ。
(訳)テニスの本質は、ぼろぼろにめった打たれることだと知った。つまり、勝つか負けるか、いずれを取るかといえば、早く負けるほうを選ぶということにすぎない。(脚注:この点ひげおやじは試合では勝てないが素晴らしい。いつも参戦してスカッと負けくる)試合にこれといって、めんどうなことはないのだ(せいぜい、あいつはやっぱりへたくそだ!と皆に言われるだけ)。腹を据えて、よけいなことは考えず、試合に集中するだけ。「自分の思ったテニスができなければバカだ」などというのは、「ちばらき」や「ださいたま」(千葉、茨城、埼玉と東京)の格好ばかり重んじる打算的テニスといえる(マリンの主流)。
とにかく、二者択一を迫られたとき、ぜったいに正しいほうをえらぶということは、たいへんにむづかしい(普通は間違う)。人はだれでも、テニスの試合で負けるよりは勝つほうがよいに決まっている。となれば、多かれ少なかれ勝てないと怖気づいて試合から逃げるほうに理屈が多くつくことになるのが当然のことだ(葬式だ、結婚式だ、集まりがある、仕事がある、体が痛い、知り合いが病気だ)。試合に出ることを(いやいやあきらめて)えらんだとして、それがもし負けるに終わってなお次の休みに南コートに行ってもただ仲間から腰抜け、へたくそと軽蔑されるだけだ(そもそもそのとうりなのだから恥じる必要もない)。このへんがむつかしいところだ(編者脚注:むつかしくなんかない。試合に負けて家族や一族郎党が切腹、打ち首になるわけではない。だからへたくそでも思うようにテニスをして負けるが素晴らしい。決定権のある藩主(クラブオーナー)も同じで率先垂範。思いどうりに試合が出来れば、負けて後悔するはずもなく、もし後悔するような試合しかできないなら試合に出るな!)
ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じ死んだとしても、それは犬死、気違いだと軽蔑されようと恥ではない、つまり外野(くちゃくちゃ理由をつけて試合から逃げる腰抜け)のいうことは相手にしない。これが、武士道(勝負)の本質。とにかく、武士道をきわめるためには、朝夕くりかえし死(負け)を覚悟することが必要なのである。つねに死を覚悟しているときは、武士道(勝つ方法)が自分のものとなり、一生誤りなく自分の思い道理どうりにテニスの試合ができるというものだ。
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